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かんどう通信  第3号 平成29年8月22日


孝行の したい時分に 親はなし

 昔のことわざは真実をついていると思います。最近、私の亡き父が平成11年(84歳:当時)に出版した句歌集を製作・発行していただいたH出版のS社長とお会いいたしました。そのご縁で、父が生前に書き溜めた作品や読書ノートに残された父の「自分史」・「人生訓」に目を通す機会を得、正直言って、感動し涙が止まりませんでした。うかつにも当時の私は仕事に忙殺されていて記憶がありません。この父の句歌集は、岩手日報(H11.10.17)にも「自分史 わが人生を刻む~及川正好さん(盛岡市)」と、顔写真入りで大きく取り上げられていたのです。

 新聞によれば、B6判、180ページ、短歌300首、俳句200句、新聞への投書、雑感などを綴った随筆の3部構成。400部作製とあり、自分の父のことではありますが、息子としてその部数の多さに圧倒されました。おそらく父は多くの友人、知人に贈呈したのだろうと想像し、その人脈の多さにも驚かされました。現在残っているのはわずか数冊だけです。

 私が覚えている父は頑固一徹で厳しい人。東京生まれ、祖父が菓子職人、尋常高等小学校卒、釜石製鉄所で定年退職までずっと事務職。教員志望だった。釜鉄退職後、一番上の姉のつてで仙台の玩具卸し会社で67歳まで10年勤務した苦労人ということ。しかし紙面を読むと岩手日報の記者氏の方が私よりずっと父について詳しくご存知でした。ほんとにバカ息子です。

 「わたしは老後の今、勤めていた時よりも 『生きがい』を感じている・・・夢中になるものがある人には寂しさがない 『生きがい』は人から与えられるものではない 自分がつくるのだ」

  ――短い父の文章に、気迫と自信が読み取れて、わが父の挑戦心が伝わってきました。

 今となってはかなわぬことながら、できることなら一献傾け、父から直接人生について学んでみたかったと、後悔先に立たずの想いです。

 もともと私は母親っ子でした。5人兄弟の末っ子で長男だった私は一家の期待の星。上3人の姉たちは、母が後妻ということもあったせいか、中学校を出てすぐに東京へ就職。3歳上の実姉と私は高校卒業まで釜石で過ごしました。釜石南高校卒業時、「手に職を付けるか、国立大学に行くか自分で決めなさい」と助言してくれたことが唯一の父との会話だったと記憶しています。

 父の本から「自分史」という言葉を知り、改めていい言葉であると思いました。自分の生きてきた道を綴ることは、高齢の人たちに“生きがい”を与え、家族に自分の知らない一面を伝える貴重な書物ともなるものです。俳句でも短歌でも日記でも、父のように新聞に投書した内容や主張などでも、なんでも気楽に綴ってよいと前出のS社長が話してくださいました。S社長は自分の娘さんが結婚される時に、写真をいっぱい散りばめた「親からの手紙」という冊子を記念にプレゼントしたよ、と嬉しそうに教えてくださいました。「自分史」は相手への贈り物であると同時に自分自身へのご褒美でもあるのですね。

 今私は「60の手習い」で、「五行歌」を始めようと思っています。肴町で七夕夏祭りを見物した時に掲示されていた五行歌が面白かったことに加え、「あいてらす」顧問をしていただいているK氏の作品を読んで感激したからです。K氏は92歳で元マスコミ人。世の中に明るく博覧強記。頭脳明晰で身体的にもすこぶるお元気。これは趣味を持ち、人生を楽しく、明るく生きて、クヨクヨしないことと関係がありそうです。人脈も広く今でも人と積極的に出会いを求めるエネルギーに敬服します。故日野原重明先生が言われた「新しいことを創められる人はいくつになっても老いることがない」の典型であり、わが父とは全く違う人生ですが、老いてますます盛んなところは共通しておられます。100歳までもずっと「健康寿命」を保ち、私の相談役として今後もお知恵をお借りしたいと、益々のご長寿を祈念しております


                             「あいてらす」        
                            代表(経営コンサルタント)
                                及川 好夫

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